110年前の日本~東京編~2021年07月20日 22:30

先般ブログで修復を紹介した日本寫眞帖の中から110年前の日本各地を紹介したいと思う。
日本寫眞帖の修復

今回は110年前の東京の風景を紹介する。
【二重橋】
宮城は旧江戸城と称し長禄元年鎌倉管領上杉定正の臣、大田道灌の創築する所にして上杉氏の居城たり大永四年小田原の北條氏綱之に代わるに及び城池を修理し氏政の時復再び修築せり。天正十八年徳川家康関八州に封せられ入りて居城となす。慶長十一年藤堂高虎に命し諸侯に役を助けしめ大に規模を拡大し城郭を改築せしむ。当時其の他地域二十二萬三千百八十二坪を包有す。以て其殿閣樓廊の如何に壮大なりしかを想見するに足る。徳川氏子孫伝承十有五世。明治元年四月十一日慶喜之を朝廷に致すまで二百七十九年間徳川氏累代の居城たり。此月車駕京都を発し十月十三日江戸城に入らせ給い。改めて東京城と称し翌二年三月、ここに皇居を奠められたり。六年五月北隅火を失して萬城に延焼す。乃ち赤坂離宮を仮皇居と為し後十一年即ち明治十七年皇居の造営に著手し二十一年十月工就り翌二十二年一月十一日新宮に遷幸あらせられたり。即ち今の宮城にして東は前苑、西は吹上、北は本丸、皆壘濠を以て限り宮関殿樓其中に在り圖は正門の景にして前面の石橋を旧西丸大手橋と曰い上なる鉄橋を旧西丸下乗橋と曰う。二層重畳するの観あるを以て世に二重橋と云う。

【日本橋】

日本橋川に架し通一丁目より室町一丁目に通ず。慶長八年の創架にして幕府時代には江戸の里程元標なりしか。今に至るも日本首府の中樞を占めたり。現今の橋梁は明治四十三年の新設にして工費五十萬圓を要し全部花崗岩を用い白玲瓏として美観他に比なし。橋頭日本橋の字は前の十五代将軍徳川慶喜の筆蹟なり。此の橋より江戸橋までの北側には有名なる魚市場あり。毎朝の雑踏筆紙に盡すべからず。

【白木屋百貨店】


【東京帝國大学】

本富士町にある構内の面積十萬二十五坪建坪一万七千余坪にして中央にある泉地、丘陵等は旧加州藩邸の庭園育徳園の名残なり。本大學は大學院及法・医・工・文・理・農の六文科大學より成り大學院は学術技芸の薀奧を攻究し分科大學は学術技芸の理論及び応用を教授するところにして農科大學は別に荏原郡上目黒村にあり、圖は世に赤門と称うる通用門なり。

【御茶の水】

聖堂の西女子師範学校前に在り、幕府の時、茶用に供せし名水なり、神田川掘割の時までは猶お其遺址を存したりしか。享保年間、川幅を広むるに当たり其蹟全く廃し今は鉄橋を架して電車を通せり圖は其上流より見たる所にして、中央に見ゆる高閣はニコライ大聖堂なり。

【内神田遠望】
圖は萬世橋停車場楼上より内神田方面を望見したる所にして中央に見ゆるは軍神廣瀬中佐の銅像なり、中佐か第二回旅順閉塞に於いて壮烈なる最後を遂げ長く海戦史上に勇名を馳せたるは既に世人の記憶に新たなる所、銅像と相対して白亜二階建ての水菓子兼洋食店あり軍神軒と云う。右方高くビールの電気広告は札幌ビーヤホールにして其下方なる清心丹の電気広告は市内最初の電気広告なりと云う。此地電車各線路の交又點に当たり東行するものは両国より本所に北行するものは上野を経て浅草に、西南は三田、青山、新宿、及び江戸川方面に、而して坦南道を指せるは日本橋を過ぎて品川に至る。各線の岐るる所、乗る人、降りる人、其雑踏殆ど名状すべからず殊に付近は有名なる多町の市場にして午前中の光景の如き眞に肩摩轂撃(けんまこくげき)或人之を評して親不知子不知町称す蓋し過言に非ずと謂うべし。

【上野公園 竹の臺邊花時の景】


【浅草公園 仲見世】


【浅草公園 第六区活動写真館前の景なり】


【品川停車場】
高輪南町に在り東海道線の第二駅にして山手鉄道の分岐点に当たり上野、新宿、赤羽方面に向かう者の乗換所なり。現在の建物は明治二十九年の建築に係る。

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