ならぬものはならぬ2021年11月29日 23:38

 ここ1カ月ブログのアップが滞っていた。その原因のひとつが秋篠宮眞子内親王殿下と小室圭氏の問題であった。
 30歳を目前に眞子内親王殿下は、あくまで小室圭氏と結婚するべく、公を捨てて、国民を敵に回し皇室を飛び出した。
 10月26日の小室圭・眞子氏の一方的朗読記者会見で明らかになったことは、小室圭氏の実母小室佳代氏の元婚約者との金銭問題解決に、眞子内親王殿下がずっと関わっていたことだ。婚姻前のいち皇族が親族でもない家庭のもめごとに民事介入するという前代未聞のことを眞子氏自らが自分が指示したと暴露した。
 小室家は、そもそも近親者である実父と祖父がいずれも自殺しており、そのような家庭環境の中、実母佳代氏には元婚約者がいて金銭問題でもめていたり、未亡人になった直後から元ヤクザの彫金師と同棲していたり、一般家庭でも嫁に出すのが憚れるような家庭に皇族が嫁ぐとは、国民が賛成するわけにはいかなかった。ところがその心配を眞子氏は記者会見で「根も葉もない誹謗中傷」と言い放ち、結婚に好意的な方には感謝する、と明言し、皇室を心配して結婚に反対する国民を敵に回し国を分断した。
 小室氏との結婚については「宮内庁関係者」の情報としてこれまで色々漏れ聞こえてきたが、週刊誌が面白おかしく書き立てる根も葉もないこととと思っていた。しかし、結婚後渡米前の2人の記者会見でそれらが本当であったことを眞子氏自ら明らかにした。
 皇室・皇族は血筋そのものである。皇族以外の者が皇族になりたくてもなれない。皇族男性であれば生まれた瞬間に自分の役割身分が決まる。自分は籠の中の鳥で不自由、窮屈だと「自由」を求めて皇室を飛び出したつもりの眞子氏だが、その神から与えられた血筋を毛嫌い、世間の本当の恐ろしさや、「自由」に見えるが本当はもっと思い通りにならない不自由なこの世間をこれから思い知ることになるのだろう。
 元秋篠宮眞子内親王殿下は脱皇族といいながら、皇族の特権を渡米後もいまだに享受しながら、国民の皇室に対する信頼を著しく棄損する行為をした。「ならぬものはならぬ」を誰も説得できず、自分の愛を貫く(その愛も本当の愛かどうかもわからない)ことに徹した厚顔無恥の皇族であった。いつの日か若気の至りだったと、自分の愚かさに気付いてくれることを望んでいる。

神様の水の消費期限2021年09月05日 20:30

 全国の国ごとに一之宮と呼ばれる神社があり御朱印を集めている。平城京の古都奈良には意外や意外、一之宮がひとつしかない。三輪素麺でゆうめいな三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)が大和国一之宮である。友人とそこを訪れた。

http://oomiwa.or.jp/
 
 本殿の奥に薬井戸と呼ばれる湧き水があった。万病に効くという薬水が湧き出る井戸で、富山県の人たちが製薬で薬を水で溶くのに使ったり、書画を書く際に使うとの由緒書きがある。武漢肺炎の影響で井戸は閉鎖しており、代わりにここからパイプを敷いて臨時水汲み場をつくり、複数の蛇口からご神水がでてくるようになっていた。「ご神水」として近隣から空いたペットボトル数本を持参して水を汲みに来る参拝がひっきりなしにやってくる。ここで汲めばお賽銭のみ入れればいいのだが、私はペットボトルの持ち合わせがなかったので、社務所でペットボトル入りのご神水を拝受した。
 ボトルには「御神水」のラベルと「冷蔵庫で保管いただき早めにお飲みください」の注意書きのみだった。
神職の方に「妙な質問ですが、ご神水の消費期限はどれくらいですか」と尋ねたら「生水を組んでますので、2~3日でしょうか、できるだけ早くお飲みください」との答えだった。

「煮沸すれば大丈夫でしょうか?」

 煮沸などすれば神様の霊気もたちまち煮えくり返ってすっかり無くなってしまいそうな気がしながら、念のため聞いてみた。

「んん、とにかく早めにお飲みください」というのが神職のファイナルアンサーだった。
 3日以内に消費しきれるかどうかわからないが、武漢肺炎や風邪封じも兼ねて、そのままいただくことにする。

オリジナルタイトルを生かす2021年07月03日 20:30

表紙が外れかけている神社祭式に関する古書を装丁しなおした。平(ひら)の青い部分はもともとのクロス。赤い部分の「平ので」は背と表紙の接合部分(溝という)の布が弱くなっていて、同じ赤系で張り替えた。もともとの背表紙にあった本のタイトルは金文字でまだ使えそうだったので、張り替えた平のでの赤いクロスの上からタイトルを切り取って貼り付けた。

『新撰 祭式大成』調度装束篇
皇典講究所 国学院大学講師 金光慥爾著
昭和17年5月20 明文社発行

御製を詠まれた男、出光佐三2021年06月20日 20:40

出光興産が明治44年6月20日に創業して110年目にあたる今日、元出光興産社員奥山康大氏の『正伝 出光佐三』出版記念講演に行ってきた。百田尚樹氏の『海賊と呼ばれた男』のモデルとも言われる創業者出光佐三は決して海賊ではなく、彼が逝去したとき、
昭和天皇から
国のため ひとよつらぬき 尽くしたる 
             きみまた去りぬ さびしと思ふ
と「御製を詠まれた男」である。
出光佐三は終戦の詔を聞いた2日後には社員に向けて『玉音を拝して』を訓示しそのなかで
1.愚痴をやめよ
2.世界無比の三千年の歴史を見直せ
3.そして今から建設にかかれ
と3つの事を示したのが出光興産社内教育資料にあるそうだ。グローバリズムと中国脅威の波とコロナ不況で瀕死の状態の我が国だからこそ、出光佐三という日本を愛した経営者の生き方をこの本で学び実践できればと思う。

遣唐使船に想う2021年06月17日 00:05

遣唐使船復元
東京オリンピック2020の聖火リレーが全国を回っており間もなく東京にやってくる。ゴールデンウイーク期間中ちょうど長崎県入りする聖火を記念して長崎港に遣唐使船が係留されているのを見学しに行った。
この遣唐使船は、平成22年に平城遷都1300年を記念して角川財団が復元した遣唐使船で、奇しくも聖徳太子遠忌1400年の今年、再び長崎港にお目見えしたのだった。
https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/other/kentoushisen.html
https://www.walkerplus.com/article/1028942/

長崎県庁内ホールには遣隋使、遣唐使に関連した歴史パネルが展示してあった。その中のひとつのパネルに引き付けられた。

【遣唐副使のクレーム】
唐の国際秩序の中で自国の立場を主張する。
長安に到着した752年の遣唐使は、年が明けた正月、大明宮の含元殿で他の外国使節と共に皇帝に信念の拝賀を行う儀式に参列した。そこで用意された日本の席は、西側の第二、吐蕃(チベット)の下座。ところが新羅の使節の席は東側の第一、しかもその上座に用意されている。これを不服とする遣唐副使の大伴古麻呂は、(長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていないとして)唐の役人に猛抗議。日本と新羅の座を入れ替えることを認めさせた。唐は新羅を日本より上とみて席順を決めたはずだが、古麻呂のあまりの勢いに押された。ここには日本が唐を中心とする国際秩序を受け入れながらも、その中で自国の立場を優位にしようと躍起になった様子が伺える。

「クレーム」とか「躍起になった」とか若干県庁の自虐的表現は気になるが、大伴古麻呂のように祖国に誇りを持ち祖国の権威の為に国際社会に対してこれだけ強く物申す日本人が果たして今の政治家の中にいるだろうか。聖徳太子も遣隋使に「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」と書いた国書を持たせ、隋の煬帝を怒らせたことは有名である。昔の日本人は本来それだけ誇りを失わなかった。

祝 建国記念日(紀元節)2021年02月11日 08:57

今日は我が国の建国記念日(紀元節)であり、古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位した日である。(日本書紀に辛酉年春正月、庚辰朔、日付は正月朔日とされており、その即位月日を明治に入り、グレゴリオ暦に換算した日付が紀元前660年2月11日)。
今日のこの日は天皇、皇室について触れなければ説明できない祭日であり、今の日本の姿の起源にもなっている。それ故にマスコミが語りたがらない旗日のひとつである。
弥栄弥栄。

昭和天皇お手播きのオリーブの実2020年12月28日 14:06

昭和天皇お手播きのオリーブからなった実
二十四の瞳とオリーブの小豆島に行ってきた。小豆島にはオリーブの木が島中に植えられており、島の特産品にもなっている。
オリーブはそもそも日本では文久2年、徳川将軍の侍医であった林洞海がフランスから持ち込んだオリーブを、薬用にと育てたのが初の栽培と伝えられている。その後1908年に鰯など魚の保存を目的とした醤油と油漬けの缶詰を作る際、オリーブオイルが必要になったことがきっかけで小豆島がオリーブ栽培試験地に指定された。同年には三重県、鹿児島県も栽培試験地として名を連ねたが、オリーブの結実に成功したのは小豆島のオリーブだけだったそうだ。
島の中部ちかくの小高い丘に1950年昭和天皇が行幸の折り、農業試験場でお手播きになったオリーブの木が70年経った今でもすくすくと育っている。
https://www.olive-pk.jp/map/chihi.html
オリーブの木は通常挿し木で増やしていくそうで、それらは我々のイメージ通り細長い葉っぱを付けた木に成長するが、種から育てると、しっかりした本葉になるまで10年かかるという。葉も色が濃くて挿し木より丸い形の葉で、およそオリーブのイメージとは程遠い姿で成長する。
私が訪れた際は、11月の収穫期も終え、ちょうど昭和天皇お手播きの木の下に今年なったオリーブの実が落ちていたので有り難く拾ってきた。私も種を播いて育ててみようと思う。(「保険」に苗木も買ってきた)

終戦の御詔勅(現代語訳)2020年08月15日 08:27

今日は終戦の日。昭和天皇の終戦の御詔勅を丁寧に読み解いていくと、昭和天皇が戦に敗れ残された国民に寄り添い国民への励ましたかその思いがひしひしと伝わってくる。戦い散っていった英霊や先人がなぜ国家の為に戦ってくれたのか。次の世代の我々もその意志を継いで何としても成し遂げなければと改めて思う。我が国日本は精神的にも敗戦国から未だに脱していない。

【御詔勅原本】
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0101000000/0000000002/00

【終戦の玉音放送】
https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html

【現代語訳】
朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾しようと思い、ここに忠良なる汝(なんじ)ら帝国国民に告ぐ。

 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し、その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させたのである。

 そもそも帝国国民の健全を図り、万邦共栄の楽しみを共にするは、天照大神、神武天皇はじめ歴代天皇が遺された範であり、朕は常々心掛けている。先に米英二国に宣戦した理由もまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを切に願うことから出たもので、他国の主権を否定して領土を侵すようなことはもとより朕の志にあらず。しかるに交戦すでに四年を経ており、朕が陸海将兵の勇戦、朕が官僚官吏の精勤、朕が一億国民の奉公、それぞれ最善を尽くすにかかわらず、戦局は必ずしも好転せず世界の大勢もまた我に有利ではない。こればかりか、敵は新たに残虐な爆弾を使用して、多くの罪なき民を殺傷しており、惨害どこまで及ぶかは実に測り知れない事態となった。しかもなお交戦を続けるというのか。それは我が民族の滅亡をきたすのみならず、ひいては人類の文明をも破滅させるはずである。そうなってしまえば朕はどのようにして一億国民の子孫を保ち、皇祖・皇宗の神霊に詫びるのか。これが帝国政府をして共同宣言に応じさせるに至ったゆえんである。
玉音放送を聞いて炎天下にもかかわらず、皇居前で天皇陛下に向かって泣きながら額づく人々
 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」。五臓)引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。思慮するに、帝国が今後受けなくてなたない苦難は当然のこと尋常ではない。汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。しかしながら朕は時運がこうなったからには堪えがたきを堪え忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。

 朕は今、国としての日本を護持することができ、忠良な汝ら国民のひたすらなる誠意に信拠し、常に汝ら国民と共にいる。もし感情の激するままみだりに事を起こし、あるいは同胞を陥れて互いに時局を乱し、ために大道を踏み誤り、世界に対し信義を失うことは、朕が最も戒めるところである。よろしく国を挙げて一家となり皆で子孫をつなぎ、固く神州日本の不滅を信じ、担う使命は重く進む道程の遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、道義を大切に志操堅固にして、日本の光栄なる真髄を発揚し、世界の進歩発展に後れぬよう心に期すべし。汝ら国民よ、朕が真意をよく汲み全身全霊で受け止めよ。

御署名(裕仁) 御印(天皇御璽)

自家製日記帳の収納ケース完成2020年06月01日 01:15

自家製日記帳と夫婦函
日本でも武漢肺炎がなんとなくささやかれ始めていた1月末から2週間離島に行った。普段日記をつける習慣はないが、せっかくの滞在だったので、事前に自分の気に入った布を表紙にして自家製日記を作り島に持って行き、日々のことを書き綴った。島から戻り3か月経ったが、この度日記帳保存用ケースを作り、ようやく旅へのひと区切りがついた。

【装丁】
日記帳:上製ドイツ装
ケース:夫婦函(めおとかん)

日記帳の冒頭には、
天皇陛下の御製を手書きでしたためていた。

天皇陛下
精魂を込め戦ひし人未だ
   地下に眠りて島は悲しき
戦火に焼かれし島に五十年も
   主なき蓖麻(ひま)は生ひ茂りゐぬ
平成六年

[●] 祝 昭和の日~昭和天皇をしのぶ~2020年04月28日 21:25

幼き裕仁親王殿下(のちの昭和天皇)
本日4月28日は敗戦後GHQに占領されていた日本がサンフランシスコ講和条約発効により主権回復した日であり、明日4月29日は「昭和の日」でありかつては昭和天皇の誕生日であった。
昭和の時代は、満州事変から大東亜戦争、米国との開戦から敗戦を経て戦後復興と高度経済成長まで、まさに激動の時代であった。
昭和天皇もこの大変な時代に様々な大きな決断をし、ご苦労も多かったと思うが、常に国民とともに生きておられたことが終戦の御詔勅や敗戦後のマッカーサーとの会見でもでもうかがえる。

https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

昭和の日に際し、手元にある修理予定の本の中から
幼き昭和天皇のお写真を見つけたのでここに昭和天皇への感謝も込めて掲示する。

出典は
『明治大正昭和 國史寫眞大鑑』 
昭和9年4月 明治天皇御寫眞帖刊行会発行

他にも御父上である大正天皇や幼き弟君の秩父宮殿下とご一緒の写真もある。

私が子供頃の老人世代はほとんどが明治生まれで、「明治・大正・昭和」と3世代を生きてこられてすごいな、と思ったものだが、そういう私も「昭和・平成・令和」の3世代を生きていく世代となった。しかも始まったばかりの令和の世は武漢肺炎に水をさされ、世界恐慌の様相を呈してきており、これまで想像すらできなかった様々な陰謀や画策が世界中で渦巻いている。それに備え対抗するためにも、内部分裂している場合ではなく日本全体も心を一つにして挑まねばならない。外国では、自国を大事に思うpatriotism「愛国」という点では、左派も右派もない。