淡路島が兵庫県であること2022年03月23日 14:23

江戸時代は阿波の蜂須賀藩領地の一国だった淡路島。それが廃藩置県の時に、淡路島は徳島県ではなく、兵庫県に組み込まれた。そのきっかけにもなったのが庚午事変である。

阿波蜂須賀藩の筆頭家老の稲田家が1609年に淡路島支配を任されて以来、大政奉還までの約250年間、大名並みの石高を誇る淡路を支配し、洲本城城代として勤めてきた。

徳川家と深いつながりのある阿波藩に対して、朝廷とのつながりを深めていった家老稲田家。その亀裂が表面化したのが明治3年の「庚午事変」(稲田騒動)であった。

明治維新後、秩禄処分によって士族に編入されなかった稲田家臣が、阿波藩からの分藩独立を明治政府に願い出た。この動きに阿波藩藩士が反発し、1870年明治3年に、阿波藩士が稲田氏邸宅や稲田家臣の屋敷を襲撃し、死者17名、重軽傷者20名を数え、多数の屋敷が焼失し、貴重な資料もすべて灰となった。これが庚午事変であり、事件を先導した阿波藩士は切腹、稲田氏とその家臣は北海道へ移住開拓命令が下った。

洲本市内には稲田家歴代当主の墓や招魂碑が菩提寺にあるが、庚午事変後も何者かに石が投げられたりして、阿波と淡路の確執は続いていた。

これ以上の「内部」確執を避ける意味もあってか、廃藩置県の際に、淡路島を徳島県には組み込まず、兵庫県に組み込んだと思われる。 私の実家の裏は、昔切腹、首切りの場になっていて「稲田家の恨み」が今でも残っている、だから町内は皆、男主人が先に亡くなり、未亡人の家ばかりだ、と亡くなった父が生前よく言っていた。そう言っていた父も先立ち母が残され、確かにうちの家の周りはみな未亡人の家ばかりだ。

山灯籠完成時(大正時代)

洲本市内にある益習館:稲田家の西別荘で私塾として使われた。そこの庭園が国指定名勝になっており、明治維新の際には西郷隆盛や大久保利通も立ち寄って滞在したと言われている。

益習館庭園

現在の益習館庭園 石燈籠の大きさが圧巻