チベット・ダラムサラ・ブータン~3か国を比較して~ ― 2020年05月08日 00:00
チベット・ダラムサラ(インド)・ブータン、いずれもチベット人にゆかりのある地である。チベットへ行ったことをきっかけに、数珠つなぎ的に他の2か国も訪れた。3か所を比較して分かったのは、それぞれが歴史の運命により違った道を歩んでいるということだ。
チベット:チベット人にとっては祖国の地でありながら、中国共産党に侵略されてしまい、由緒ある宮殿、お寺、仏像は数々あるが、そこにはチベット人の自由な祈りや解放された魂はない。主(あるじ)不在の、建築物と圧政とチベット人の悲しみが残る街だ。
ダラムサラ(インド):ダライラマ法王の亡命先で、チベット亡命政府もある。ヒマラヤを越えて逃げてきたので、チベットから持ち出せた歴史的経典、仏像、仏画なども極めて限定的であるが、皮肉にもここには今のチベットでは得難いチベット人の自由な祈り・魂・笑顔があった。(笑顔の裏側に実は祖国を失った悲しみがある)
ブータン:16世紀にチベット仏教の主流から分派した宗派が作った国。いわゆるチベットの弟分のような国。ラサから分派したのが幸いし、今に至るまで自分たちの国で自由な信仰と自治独立を維持している。チベットにはない魂、ダラムサラにはない由緒あるお寺、仏像、経典の両方を持ち合わせ、伝統を重んじ自国に誇りを持っている。
チベット:チベット人にとっては祖国の地でありながら、中国共産党に侵略されてしまい、由緒ある宮殿、お寺、仏像は数々あるが、そこにはチベット人の自由な祈りや解放された魂はない。主(あるじ)不在の、建築物と圧政とチベット人の悲しみが残る街だ。
ダラムサラ(インド):ダライラマ法王の亡命先で、チベット亡命政府もある。ヒマラヤを越えて逃げてきたので、チベットから持ち出せた歴史的経典、仏像、仏画なども極めて限定的であるが、皮肉にもここには今のチベットでは得難いチベット人の自由な祈り・魂・笑顔があった。(笑顔の裏側に実は祖国を失った悲しみがある)
ブータン:16世紀にチベット仏教の主流から分派した宗派が作った国。いわゆるチベットの弟分のような国。ラサから分派したのが幸いし、今に至るまで自分たちの国で自由な信仰と自治独立を維持している。チベットにはない魂、ダラムサラにはない由緒あるお寺、仏像、経典の両方を持ち合わせ、伝統を重んじ自国に誇りを持っている。
チベット人に想う~漢族との比較~ ― 2020年05月08日 18:52
チベットに行って感じたのは、チベット人の皆さんというのは、漢民族とは一番対極的な人々だということだった。
私がここ10年接してきた大陸の一般チャイニーズは、中国共産党や一人っ子政策の影響もあってか、信仰心を持たない。何を信じるかというとお金で、最終的には自分しか信じない。自分しか信じないから、謙虚さもないし、殺伐として余裕がない。
一方私がラサで見たチベットの人々は、(中には悪い人もいるとは思うが)一番お金に遠く、とにかく信仰心が自らをも超越する。お寺の前では一日中ひれ伏し祈っている。何百キロも離れたチベットの田舎から五体投地(祈りながらひれ伏し腕を使って全身を前へ進める)で一日かけて数百メートル進みながら、数百日かけて首都ラサを目指している青年を目にした。。(東京から這いつくばってお伊勢参りするようなもの。)擦切れてボロボロになった衣服を身にまとい、施しを受けながら身ひとつでラサにたどり着く。日焼けとホコリで真っ黒になった顔に前だけを見つめる純粋な目が光り、貧しくてもその表情は信念と誇りに満ちている。周りにいるチベット人も彼をねぎらい、敬意を表している。
五体投地などという行為も我々が普段の行動指針の基準としている効率とか合理性というものはない。ラサにたどり着いたからと言って金銭的損得など全くなく、ひたすら彼らの信仰心だけが成せる業である。
従ってどこか表情に余裕があり信仰を第一とする徳の上でも崇高なチベット人の皆さんを前にすると、自分が如何にちっぽけで貪欲かを知る。更に輪をかけたのが自分しか信じないチャイニーズであるから、彼らにとってチベット人は全くの対極にあり、理解しがたい存在であろう。
以前中国に留学していた時に、学内にはウイグル人やチベット人の学生もいた。ある日学内で暴力事件が起こったそうで、その時に私の漢族の先生は「たぶんウイグル族かチベット族の学生がやったに違いない、彼らは風紀が乱れているから」とよく言っていた。事の真相は分からないが、漢族のチベット人に対する潜在的な先入観が伺われる。
私がここ10年接してきた大陸の一般チャイニーズは、中国共産党や一人っ子政策の影響もあってか、信仰心を持たない。何を信じるかというとお金で、最終的には自分しか信じない。自分しか信じないから、謙虚さもないし、殺伐として余裕がない。
一方私がラサで見たチベットの人々は、(中には悪い人もいるとは思うが)一番お金に遠く、とにかく信仰心が自らをも超越する。お寺の前では一日中ひれ伏し祈っている。何百キロも離れたチベットの田舎から五体投地(祈りながらひれ伏し腕を使って全身を前へ進める)で一日かけて数百メートル進みながら、数百日かけて首都ラサを目指している青年を目にした。。(東京から這いつくばってお伊勢参りするようなもの。)擦切れてボロボロになった衣服を身にまとい、施しを受けながら身ひとつでラサにたどり着く。日焼けとホコリで真っ黒になった顔に前だけを見つめる純粋な目が光り、貧しくてもその表情は信念と誇りに満ちている。周りにいるチベット人も彼をねぎらい、敬意を表している。
五体投地などという行為も我々が普段の行動指針の基準としている効率とか合理性というものはない。ラサにたどり着いたからと言って金銭的損得など全くなく、ひたすら彼らの信仰心だけが成せる業である。
従ってどこか表情に余裕があり信仰を第一とする徳の上でも崇高なチベット人の皆さんを前にすると、自分が如何にちっぽけで貪欲かを知る。更に輪をかけたのが自分しか信じないチャイニーズであるから、彼らにとってチベット人は全くの対極にあり、理解しがたい存在であろう。
以前中国に留学していた時に、学内にはウイグル人やチベット人の学生もいた。ある日学内で暴力事件が起こったそうで、その時に私の漢族の先生は「たぶんウイグル族かチベット族の学生がやったに違いない、彼らは風紀が乱れているから」とよく言っていた。事の真相は分からないが、漢族のチベット人に対する潜在的な先入観が伺われる。


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