インターナショナルとグローバリズム2019年12月11日 15:15

日本でも小泉内閣の竹中平蔵あたりから盛んに「グローバリズム」という言葉が使われ始め、日本も世界の「趨勢」に乗り遅れるなとばかり企業でも「グローバル本社」とか「グローバル契約」とか、盛んに「グローバリズム」が先進的で良いもののイメージで捉えらえている。果たしてそうなのか。

これとよく似た言葉で「インターナショナル」という言葉がある。日本語では「国際」である。「国際人」とか「国際的」というように使う。が、インターナショナルは決してグローバリズムではない。
INTERNATIONALの単語の構成を見ると、NATION(国家)とNATION(国家)がINTER(行き交う)がINTERNATIONALであって、大前提として「国家」NATIONが存在する。お互いが自分の国家を意識したうえで、INTERするのである。だから「あの人は国際人だ」といえば、その人はまず祖国をしっかり意識したうえで、自国との比較において、相手の国家と価値観を共有したり、違いを議論できる人の事である。

しかし「グローバリズム」は違う。国家間の境界をなくし、地球全体を「ボーダレス」にし国家そのものを否定する考え方である。「地球人」と自分の事を名乗っている人も「国」という考え方がないのである。

このグローバリズムを考えたのが国際金融資本と呼ばれる人たちで、アメリカではWALLSTREET,イギリスではCITYの主にユダヤ人である。ロックフェラー、ロスチャイルドなどがその代表で、国家を持てず、欧州各国で「虐げられてきた」ユダヤ人にとって、地球上の国家そのものをボーダレスにしてなくしてしまえば人類全体が自分たちユダヤ人と同じ境遇になることを狙っているのである。

ロシア革命、フランス革命をはじめ、最近では「アラブの春」、「テロ組織ISイスラム国の出現」、「アフリカからの移民問題」、「反トランプ運動」、「空港や水道など基本インフラの民営化」。これらはユダヤ人が目指す地球から国家をなくすというグローバリズムのための方法としてとらえると、すべて説明がつくのは偶然だろうか。

リベラルな人からすると「国は暴走するもの、だから国民が監視しなければいけない」と言われるだろうが、一方で我々国民は国家があるからこそ国家に守られてもいる。その守ってもらえる国家が無くなれば、先般の台風被害ではないが、全てが自己責任、自己管理となり、ロスチャイルドらのようにお金があるものだけが自分を守れる世の中になってしまう。
インターナショナルはいいが、グローバリズムには反対である。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://onokorojima.asablo.jp/blog/2019/12/10/9187818/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。